はじめに

時間の流れ方は、人によって違う。当たり前のことのようでいて、私はそれを長い間、うまく信じられずにいた。うちの子を見送ってから、周りの様子が落ち着いていくのを横目に見ながら、自分の中では何年経っても、ふとした瞬間に涙が出ることがあった。

これは、その涙を否定するための記事ではない。むしろ逆で、まだ悲しんでいてもいい、ということを伝えたくて書いている。何年経っていようと、今どんな状態であろうと、それはおかしなことではないと私は思っている。この先の話は、あくまで私一人の経験でしかないけれど、もし同じように感じている人がいたら、少しでも気持ちが軽くなる部分があればと思う。

体験

あのときのこと

気づいたきっかけ

きっかけは、いつも唐突だった。何かの拍子に、テレビでたまたま似た毛色の子が映ったとき。季節の変わり目、あの子と過ごした季節の匂いがふとしたときに蘇ったとき。特別な記念日でもなんでもない、ただの平日の午後に、急に涙が出てくることがあった。

自分でも驚くくらい、それは唐突に来た。数分前まで普通に過ごしていたのに、気づけば涙が止まらなくなっている。理由をはっきり説明できないことも多かった。ただ、あの子がいないという事実が、時間が経ってもまったく薄れていない、ということだけは、そのたびにはっきりと感じた。

そのときの気持ち・迷い

最初の頃は、涙が出ることに対して、悲しいという気持ちしかなかった。けれど時間が経つにつれて、そこに別の感情が混ざるようになった。「まだこんなふうに泣いている自分は、おかしいのではないか」という感覚だった。

もう随分前のことなのに。周りの人はとっくに次の生活に進んでいるように見えるのに。自分だけがいつまでも同じ場所に留まっているような気がして、涙そのものよりも、涙が出続けていることへの戸惑いのほうが大きくなっていった時期もあった。誰かに言われたわけでもないのに、自分で自分を責めるような気持ちが生まれていた。

不思議なもので、うちの子と暮らしていた日常のことは、時間が経つほどに輪郭がやわらかくなっていくのに、いなくなったという事実だけは、いつまでも同じ重さのまま自分の中に残っていた。その二つのずれをどう扱えばいいのか、当時の私にはまったく分からなかった。

体験

私が考えたこと、迷ったこと

そう感じるようになった背景には、周囲との温度差があったと思う。悪気があってのことではないと分かっているけれど、「元気になったね」「もう大丈夫そうだね」という言葉を掛けられるたびに、自分の中では終わっていないものが、外側からはもう終わったことのように見えているのだと知った。

それが悪いと言いたいわけではない。ただ、その温度差の中に自分の状態を置いてみると、うまく居場所が見つからないような感覚があった。誰かに今の気持ちをそのまま話しても、うまく伝わらないかもしれない。そう思うと、話すこと自体を控えるようになった時期もあった。

一方で、同じように長く悲しみを抱えている人の話を、少しずつ耳にする機会もあった。数年経っても、何かの拍子に涙が出ると話す人。もう思い出すことは減ったけれど、たまに強く思い出す瞬間があると話す人。そういう話を聞くたびに、時間の経ち方には決まった形がないのかもしれない、と思うようになっていった。

それでも当時の私は、誰かと自分を比べることをやめられなかった。あの人はもう落ち着いているように見える、自分だけが取り残されている。そんな比較を頭の中で繰り返しては、余計に苦しくなる、ということを何度も経験した。比べても仕方がないと分かっていながら、比べることをやめるのもまた簡単ではなかった。

今の私なら: 誰かと比べてしまう自分ごと、責めずにおくと思う。ただ、当時の自分にそれができたかは分からない。

体験

今、振り返って思うこと

今振り返って、はっきりと「これで解決した」と言えるようなことは、正直ない。日常に折り合いがつくまでには、1年ほどかかったように思う。それでも、今でも涙が出ることがある。ただ、以前と変わったところがあるとすれば、その涙に対する自分自身の見方だったように思う。

以前は、涙が出るたびに「まだこんな状態でいる自分はおかしいのではないか」と、涙そのものと、涙が出ることへの自己否定の、両方を抱えていた。今は、涙は涙として、ただそこにあるものとして受け止められるようになった部分がある。悲しみが消えたわけではなく、悲しみに対する自分の姿勢が、少しずつ変わっていったのだと思う。

これは、誰にでも当てはまる過程ではないだろうし、私自身、まだ途中にいるような感覚もある。ただ、ゆっくりとでも、自分の中で折り合いをつけられる瞬間が増えていったのは確かだった。それは何かを乗り越えたということではなく、悲しみと一緒に過ごす時間の作り方が、少しずつ変わっていっただけなのかもしれない。

涙が出た日を、以前は「また戻ってしまった」と捉えることが多かった。今は、そういう日があっても、それだけで自分を評価しないようにしている。涙が出る日もあれば、出ない日もある。そのどちらも、うちの子と過ごした時間が自分の中に確かにあったということの表れなのだと、今はそう思えるようになった。

体験

もし今、同じ状況にいる人がいたら

もし今、何年経っても涙が出る自分を、どこかおかしいのではないかと感じている人がいたら、伝えたいことがある。それは、時間の経ち方に決まった基準はない、ということだ。

人によっては、比較的早い段階で気持ちが落ち着く人もいるだろう。人によっては、何年経っても、ふとした瞬間に涙が出る人もいるだろう。どちらが普通で、どちらが特別ということではないと、私は感じている。今の自分の状態を、外側の基準と照らし合わせて評価する必要はないと思う。

もし、涙がなかなか収まらないだけでなく、眠れない日が続いていたり、食欲が落ちたままだったり、日常生活そのものがつらく感じられる状態が続いているなら、一人で抱え込まず、カウンセリングを専門とする機関や、お住まいの自治体の相談窓口など、話を聞いてもらえる場所を頼ってみることも、選択肢の一つとしてあってよいと思う。それは弱さの証明ではなく、自分を大切にするための一つの手段だと、私は思っている。

おわりに

何年経っても涙が出ることに、明確な理由や期限があるわけではない。それでも、その涙を抱えたまま、日々を少しずつ過ごしていくことはできるのだと、今の私は感じている。

この記事を読んでいるあなたが、今どんな時間の中にいたとしても、それをおかしいと思う必要はない。そのままの状態で、ここまで読んでくれたことに、少しの敬意を込めたい。

一人で抱え込まないために

ここに書いたのは、あくまで私自身の体験に基づく一つの記録であり、医学的な診断や治療法を示すものではありません。 もし当てはまるようであれば、無理をせずに、下記のような窓口にも相談してみてください。

  • 動物の体調や医療的な疑問がある場合:かかりつけの獣医師、または地域の獣医師会
  • 強い落ち込みや不眠が続く場合:公認心理師・臨床心理士などによる専門のカウンセリング機関
  • 心身のつらさが強いと感じる場合:お住まいの自治体の精神保健福祉相談窓口など、公的な相談機関